小休止

ぴかぴか。

最近よく見る老夫婦のお散歩。手押し車で連なって歩いているんだけれど、ちょっとすてき。だからと言って今の時代勝手に撮るのも・・・顔が写らないよう。写真はちょっと前の小休止の景色。

窓の初期設定

車の窓、初期設定っていうのやったら普通に動くようになった。ふと思い出して説明書開いたら載ってた。昔一度やったことあった気がする。これって常識?そもそもなぜこんな手順が必要なんだろうなぁ…。

塗料乾燥待ちのため木工作業を。ネック材にヒールをくっつけ側曲げを少々。

シリアの知りあい

昨夜の対シリア日本代表戦、日本での放送がないというのでネット民の知恵を借りてカタール国営放送ALKASSで見ようとスタンバイしていたのだが、時間になってもF1のニュースやってて始まらないからチャンネル変えたら2チャンが「あなたの国じゃ見られないよ(ここだけ英語表記)」ってなってて、これかぁと。改めてALKASSにアクセスしたらブロックされた。
つぶやきサイトでささやかれていたリンクから動画配信サイトのアラビア語のチャンネルですこぶる粗い画質の中継が・・・

さて、製作中のギターはまだしばらくかかりそうだけれど、先日入った新規のオーダーギターの準備を開始した。

ホワイトパールやり直し

パール塗料を混ぜるのにちょうどいい板がなかったので竹製物差しを買ってきた。これが一番安い。丈夫で長い樹脂製のヘラとか、売ってないもんだな。物差しの塗装は削り落とした。溶け出しちゃうから。

3度目の正直となるか。ちょっとずつ手際は良くなっている。

訃報が続く

訃報が続く。知り合いのおじちゃん、そしてKANさんまで。全力でふざけるエンターテイナー。人づてに聞いたんだけれど、KANさんにtupliのHPの誤字を指摘してもらった事、忘れませんw。歌うたう人はいつでも声聞けるから受け入れ難いね。

車帰ってきた。前よりスムーズに走る気がする。調子よくなった。運転席以外のパワーウインドウが運転席から動かせなくなった以外は。

今日は女子たち映画見るというので、男二人、ホームセンターにでも行ってからフードコートあたりで待とう、よければいっしょに。珍しく置いても寝ていた。

もう追い越した

フレットを打った。先行のギターがカラーでまさかの2度も足止めになったため、こちらが逆転しそう。

サイドに穴開いていたギターの塗装。黒くしてもさほど目立たないギターで良かったね。

父の葬儀

週末、父の葬儀に行ってきた。四週連続の千葉県往復。式の規模などは父と生前話しできていたし、妹の活躍で葬儀屋さんが決まった。
結果として何というか、いろんな意味で忘れられないお葬式だった。

坊さん、故人の名前を2度3度と間違える。
それを不誠実におどけたような適当な謝罪で済ます。
孫だと言っているのにひ孫じゃないのかと何度も聞いてくる。
故人の子ども(私と妹)をさして50代と決めつける。
などの不敬をはたらいた。
俺は失礼な!と叱責した。妹は悔しさで泣いた。叔父は語り草だなと呆れた。葬儀屋のお姉ちゃんは良くしてくれたのよ。「だから坊主要らないって言ったろ」と苦笑いしている父の姿も目に浮かぶ。やっぱり父に自分でお経を録音しておいてもらえばよかったかな。

そんなせいもあってか、あまり湿っぽくならないお別れ会になった気がする。まぁ、直前に色々会って話せていたからかなぁ。

千葉からの帰り道、高速道路上で突然バッテリーランプ点灯、まもなくABS、4WD、サイドブレーキランプ点灯、ヘッドライトが暗くなり始めてコリャやばいぞとなって車屋さんに電話。オルタネーター(発電機)壊れたんだろうと、そのうちエンジン止まると言われて最寄りで降りてコンビニ駐車場へ。保険のロードサービスでレッカー頼んでレンタカーで帰宅した。寒かったろうって心配してくれたりもして、みんな優しかったわぁ。
夏以降の走行距離が半端ないので一気に来たんかなぁ。それにしても、葬儀終わるまで壊れず持ってくれて助かったし、止まったの福島県で100Km以内なのでレッカー代は無料で済んだし、飛び込んだコンビニの駐車場がすごく広くて良かったし、色々運が良かった。そしてまた父の葬式にまつわるエピソードが増えた。ぼくしーはまだお墓に行かないでおくれ。続けざまの大きな出費はかなり痛いよ。


一番甘いの

今日はちょっとタッチアップしたら仕上げのトップコートを吹くつもりだった。そのタッチアップが上手くいかなかった。結果としてまたやり直しだ。この2か月タダ働きか。まもなく心折れるぞ。

柿は干した。俺は食べられないんだけど、木の上でトロトロになった渋柿、ただひたすらに甘いゼリーみたいの。うちの2番目が大好きみたい。親父の後継者発見。自然界でこれより甘い物って思いつかない。

先週末、もう危ないと連絡を受けて三度千葉へ帰った。到着前に先行していた妹から、なんか持ち直して安定しているからいったん帰ると連絡が来た。父は横になったまま孫の手を握って微笑んだ。身支度のためいったん病院を離れようとした母には行くなとしきりに首を振った。寂しいのだろうと思った。しかし私が翌日また顔を見に行くと「もう帰れ」と怒られた。真意は分からない。死ぬのを待たれているようで嫌だったのかとも思うし、私や子供らの時間を心配しているようでもあったし、今の姿を見られたくなかったのかもしれない。ほとんどしゃべれずもどかしそうだった。

父は有機化学の人だった。大学で修士号を取り化学会社に就職後にアメリカで博士号を取った。若いころは試験管を振る仕事をしていたらしい。大好きな話がある。もう30年以上も前のことだが、父の勤める会社と海外の会社とで合弁会社を作りヨーロッパで麦用の農薬を販売するチームに加わった。社名が決まりロゴマークが決まり、いよいよ大々的に販売となるその直前に、ある条件下で残留があることを発見してちょっと危ないかもしれないと父は合弁会社を潰して日本に帰ってきた。「あれ以来、窓際族だよ。」と父は笑った。人々にはまるで知られない記録に残らない英断であると私は誇りに思っている。食の安全を、大げさに言えば人類を救ったと思っている。科学者として正しい決断をした。いつの間にかその時の父の年齢を超えてしまった。

父が息を引き取ったとの連絡が入った。このところの様子を見るに、まぁそうなるよなと理解はする。実感はない。肝不全、肝腎症候群。医者は肝臓腎臓が機能していなくて普通はとっくに亡くなっていると言っていたらしい。癌末期でこんなに穏やかな顔をしている人を見たことがないとも言っていたと。

2週間前の話だが、父は3回食べる夢を見たと笑った。ラーメンとレバニラと白菜の漬物。硬い物、塩分、タンパク質、刺激物を食べられず辛かったのだろう。母もよくやってくれた。棺に漬物の一つでも入れてやりたいところだけれど火葬場的にダメらしい。

立冬、父の好物だった干し柿を作ろうと思う。