先週末、もう危ないと連絡を受けて三度千葉へ帰った。到着前に先行していた妹から、なんか持ち直して安定しているからいったん帰ると連絡が来た。父は横になったまま孫の手を握って微笑んだ。身支度のためいったん病院を離れようとした母には行くなとしきりに首を振った。寂しいのだろうと思った。しかし私が翌日また顔を見に行くと「もう帰れ」と怒られた。真意は分からない。死ぬのを待たれているようで嫌だったのかとも思うし、私や子供らの時間を心配しているようでもあったし、今の姿を見られたくなかったのかもしれない。ほとんどしゃべれずもどかしそうだった。

父は有機化学の人だった。大学で修士号を取り化学会社に就職後にアメリカで博士号を取った。若いころは試験管を振る仕事をしていたらしい。大好きな話がある。もう30年以上も前のことだが、父の勤める会社と海外の会社とで合弁会社を作りヨーロッパで麦用の農薬を販売するチームに加わった。社名が決まりロゴマークが決まり、いよいよ大々的に販売となるその直前に、ある条件下で残留があることを発見してちょっと危ないかもしれないと父は合弁会社を潰して日本に帰ってきた。「あれ以来、窓際族だよ。」と父は笑った。人々にはまるで知られない記録に残らない英断であると私は誇りに思っている。食の安全を、大げさに言えば人類を救ったと思っている。科学者として正しい決断をした。いつの間にかその時の父の年齢を超えてしまった。

父が息を引き取ったとの連絡が入った。このところの様子を見るに、まぁそうなるよなと理解はする。実感はない。肝不全、肝腎症候群。医者は肝臓腎臓が機能していなくて普通はとっくに亡くなっていると言っていたらしい。癌末期でこんなに穏やかな顔をしている人を見たことがないとも言っていたと。

2週間前の話だが、父は3回食べる夢を見たと笑った。ラーメンとレバニラと白菜の漬物。硬い物、塩分、タンパク質、刺激物を食べられず辛かったのだろう。母もよくやってくれた。棺に漬物の一つでも入れてやりたいところだけれど火葬場的にダメらしい。

立冬、父の好物だった干し柿を作ろうと思う。