失われるもの

近年、美しい日本語が失われている、なんて言われていて、もっともいつの世でも若者言葉に物申す方々はいるのだろうけれど、事実、私自身も「KY」は「空気読める」でもいいと思うし、キモい・ウザいは言われたら本気で落ち込んだりする世代であるし、ディスる、厨二もよくわかっていないし、難しい外国語が飛び交って、ブレストしてコミットしてコンセンサスを、とかついていけなくて、声に出したい日本語が流行るくらいだからある程度みんな感じていることなんだろうけれど、そんな現代人の文化由来じゃない理由でまた一つ美しい日本語が失われつつあるんだなと感じるのが「夕立」である。何しろ雨の降り方が「夕立」の風情ではない。代わって流行しているのが「ゲリラ豪雨」というスキャンダラスな言葉で、確かにその雨は戦争由来の言葉が似あってしまうほど攻撃的であるけれど、「ゲリラ豪雨の予報」なんて言われるとゲリラの意味すら訳が分からなくなってしまう。とにかく、夏の夕暮れに打ち水のごとく心地よい「夕立」に出会えなくなってきた。毎回、豪雨警報である。激しすぎる「夕立」を受けながら、広島の空を思うのだった。

今日は髪を切りに行ってきた。妻に言われた通り美容室で。床屋派としてはやっぱり落ち着かなくてシャンプーの向きなんかどうしても笑えてきちゃうんだけど、結果には異論なし。