震災45

震災J-45の内部。
ブレーシングの浮いた隙間にヘドロが充填されていたり。

ギターに水を入れたのは人生初体験。
屋外にお風呂マットを2枚敷いて、ホースでジャブジャブやった。
それでも内部はキレイになりきらない。
はずれた力木はトップの下っ腹ですね。
でもエックスも裏板もかなり浮いてるけど。

どうしましょうねぇ。
やりたくはないよね、解体なんて。
昨夜の地震で瓦が落ちかけているところがあったので
やむを得ず屋根に登った。
もう、ほんと、瓦屋根は高いし急だし滑るし
こわい。
裸足になって這いつくばっておそるおそる作業。
てっぺんから見渡したら、落ちていた瓦のあるべき位置を発見した。

だから瓦落ちてるってずっと言ってたのに、誰も取り合ってくれない。
今日のお役人もそうだよ。
あーあの態度、だんだん腹立ってきた!

震度6弱の余震により

石巻の炊き出しは昨晩の地震の影響で中止にされた。
ガス漏れが発生しており、火は危険なので安全が確認されるまでできないとの事。
仙台でUターンして帰宅。
明日、もう一度石巻に向かう予定。
家に戻ると、り災証明の調査に役場の建築士が来ていた。
「一部損壊になると思います、半壊でもいいかなぁとは思うけど一部損壊だと思います。
帰って精査します。」
「作業場の方は特別な検査をしないんです。判定しても国から補助等をする法律がありませんから」
「応急危険度判定は作業場について出されたものだと思います」
「住居兼作業場なんですけど・・・。」
「母屋だけということで。」
だそうだ。一部損壊じゃ銀行から融資を受けない限り意味が無いらしい。
昨日の地震で玄関の壁と柱はさらに傾いた。
せっかく掃除したばかりなのにやり直しに近い。
あ~ぁ、昼飯食ってギターでも洗おう。

植樹と山元ギター

「3.11を忘れないように。」
と言って、矢附のおんちゃんが白樺の苗木を持ってきた。
裏庭に一緒に植樹した。
「おらほは先に逝くから忘れないように。」
意味深な事をつぶやいていた。
震災ギターの掃除。
まずはケースに入ったまま津波被害を受けた
フルアコとセミアコの2本。

ずいぶん汚れているものの、なんとかなりそう。
金属パーツの外に出た部分はドロリとした茶色や粉っぽい青緑に錆びてはいたが
ハンダのあたりはそれほどでもなく、もしかしたら配線は生きているかもしれない。
ボディを水拭き、乾拭きして
ハンダははずさず、ナット、ワッシャ、ネジ一つ一つを磨いて
元通りに組み込んだ。

問題はケースから出ていたというJ-45だ。
トップをはがさないといけないかもしれない。
でもそうすると、塗装もはがすことになりそうで
折角見事に入ったクラックも消えてしまうし、
震災からよみがえった感は薄れるのではないか・・・。
明日は水洗いからかな、と思っていたところへ電話が鳴り
急遽、石巻の炊き出し班に混ざる事になった。
村田蔵王のモノ作りチームで向かう。
包丁もいらないの?火をおこすの?火バサミ持ってないよ。
何にも分からないけど、とにかく自分用の食料と水だけコンビニで調達してきた。
明日、早起きさえすればあとは一日怒涛のように過ぎるだろう。

震災ケース

被害の少なかった友人たちが今日から災害ボランティアへ行っているらしい。
頭が下がる。
蔵王あたりもずいぶん日常を取り戻しつつある。
ガソリンスタンドが通常営業になり、
トラクターなどが走り始めた。
役場に罹災証明の届出を出してきた。
ついでに水道課へ寄った。
毎月の上水道代が2000円ぐらいなのに対し
3月は8000円也。
どうなの?って聞いたら、
「漏水の可能性があるので過去3ヶ月の平均で請求します。
漏水の分は徴収しませんから大丈夫です。」と。
「いえ、あの、僕は6日から23日まで蔵王にいなかったんですけど。」
お役所の人にそれ以上何を言ってもダメで、日割り計算なんてしてくれない。
今日からついに震災ギターの掃除。
まずはケースから。

水ぶきなんかじゃ歯が立たなくて、結局ざぶざぶゴシゴシ水洗い。
タワシとか歯ブラシとか使って。
それでも乾くと白く汚れが残っていたり。
既に金具は錆びてるんだもんなぁ・・・。
中まで水洗いしたので乾くのに時間がかかりそう。

夕方からは焼畑。
うちでもそろそろジャガイモを植える時季になった。

『これから先も』

仙台の友人のブログに心つかまれたので
許可を得て転載させていただこうと思う。
これを読むと、僕は被災者ではあるものの
本当は被災者ではないのだとつくづく感じさせられる。


『これから先も』     
             2011年04月03日02:36
              ヤン
忘れたくないことがある。
震災から3週間経って、
ライフラインは復活し、
被害が少なかった私たちは、日常を取り戻しつつある。
この先、もっと日常を取り戻して行ったら
忘れてしまうこともあるだろう。
でも、忘れたくないことがたくさんある。
例えばそれは、
蛇口をひねって、水が出た時の喜びとか
それまでの給水の苦労だとか
電気がついて、小躍りしながら叫んだこととか
なんでも携帯で調べていたのにそれが出来なくて、
知らない人にたくさん声かけまくって情報収集したこととか
逆に知らない人にたくさん声をかけられて、
延々立ち話をしたこととか
自分の家も大変だろうに、
店をあけてくれた店員さんへの感謝の気持ちとか
電気がきてすぐに炊いたご飯の、炊飯器をあけたときの匂いとか
食卓にイチゴがあることの衝撃や
久しぶりに湯船につかった時の安堵感や
公衆電話から聞こえた友達の声とか
たくさんの救援物資を送ってくれる友達がいることや
実際に仙台まで来てくれて、
たくさんのガソリンやタバコを差し入れてくれる友達のことや
死んでしまった友達のことや、
それでも生かされたからには強く生きようと誓う友達のことや
あなたがいてくれてよかったと
言ってくれた家族のことや
当たり前のことが、あの日を境に当たり前じゃなくなって
気付かされたことがたくさんあって。
みんなが協力しあって
みんなが応援しあって
忘れないでいたいと思う。
それが、生かされた私に出来ること。

ねぎらい

あれほど休みなく重たい物を運んだり、持ち上げたりしたので
今日は全身筋肉痛になる、はずなんだけど・・・
まだ来ないのは歳ですか?
今日は、
地震で段差の出来た高速道路を
巨大な瓦礫の山の間を
海泥の砂ボコリ立ち込める中を
腹まで浸かる海水の中を
走りきったバモス君をねぎらってやろうと
満タン決めて、ドライブスルー洗車の一番高いコースをあてがってやった。
でも、こびりついた塩まみれの泥は完全には落ちきらず
まだ潮風のにおいもした。
結局、家でもう一度水洗いした。
出かけたついでにホームセンターへ寄ってみると
自分の家の修理が終わっていなかった事を思い出した。
居間の内壁、ちょっと作戦を練ろう。
せっかくだからこれまで通りじゃないのも面白い。
そうこうしているうちに夕方になってしまい
ギター的気分ではなくなったので
被災証明、罹災証明の届出書類を作り
30枚の写真をプリントした。
どんな結果が出るのか、それがどう役立つのかちょっと楽しみ。

初めての災害ボランティア

昨晩友人と、このモヤモヤをどうしよう、と話していて
今日、日帰りしか出来ないけれど、とにかく何か手伝いに行ってみよう
という事になり、友人の友人がボランティアで入っているという石巻へ向かった。
朝6時半に出て、石巻到着が9時。
そこで連絡をとって聞いてみると、女川の方が人手が足りないと。
で、女川まで瓦礫で狭くなった道を行き到着が10時。
女川第二小学校が災害対策本部になっていて、飛び込みで「ボランティアやらせてください」
と言うと、登録をしてすぐに町立病院へ行くよう指示を受けた。
こういった統制の取れたシステムが出来上がっていることに感謝。
病院は遠くから見たときに、「あの高台にあるのは大丈夫だったんだろうね」って言っていた建物で
実際に行くと敷地内にはつぶれた車が寄せてあるという有様。

およそ5階建ビルぐらいの位置にあるその病院の一階部分が津波の被害を受けていて
それでも2階以上では病院として動いていて、
見たことはないけど、戦場の診療所を思わせた。
僕らの作業は備品の使える物と使えない物の仕分けと移動。
病院ならではの、大きく重たい様々な機械類やひん曲がった巨大な鉄製の扉などが廃棄対象で
どこの誰とも知らぬ数人のボランティアと一緒に黙々と作業を続けた。
一度、ボランティアさん!と呼ばれて行くと、車椅子のおじいさんを4階から一階へ降ろす仕事だった。
一人、お医者さんと思われる方が、グチャグチャになったカルテや資料を集めていて
およそ声をかけられる雰囲気ではなかった。
16時、今日のところはココまでと解散となった。
高台から見た女川港はそれこそ言葉にならない。
ビルの上に他の家が乗っていたり
車が突き刺さっていたり
ビルが基礎ごと倒れていたり
木造の建造物はちらばった爪楊枝のように見えたりした。

向かいにあった老人ホームはほとんど手付かずのまま。
人手はまだまだ足りていないし
これからもやることは山ほどあった。
帰り道、角を曲がると・・・軽自動車では通れそうもなかった。

3時頃が満潮だったのだろうか、港はすっかり冠水していた。
女川から石巻への幹線道路もところどころ水没していて
地盤が下がった事がよく分かる。

本当に自分勝手な事だとは分かってはいるが
たった一日、ほんの少しの手伝いをしただけで
モヤモヤした気分は解消し、
彼らがボランティアに感謝している以上に充足感を覚え
たった一つの病院の備品の一部を少し移動しただけで
宮城県民としてのある一定の責務を果たしたようなつもりになっている。
見ると聞くでは、やるとやらないでは大違いで
復興までどれほど大変なのかがよく分かった。
1年2年なんてスケールではない。
警察、電気工事、ボランティア、その他、本当に全国の車のナンバーが走っている。
今現在の最低限の物資は自衛隊と米軍が運んでくれている。
人手が増えてくれることを願う。
僕は明日から自分の仕事、震災ギターを綺麗にし、ギター製作をする。
その傍らでまた微力ながら支援ができたら、と思う。

ブース修理

午前中は地域の側溝掃除。このあたりでは「ほりあげ」って言うらしい。
一部で地震によって崩落している所があり、人力ではどうにもならないのでそのまま。
まぁ、水が流れればいいのさ。
午後は塗装ブースをやっつけた。


分かりにくいだろうけど、4枚のファンの隙間から自家製ダクトのネジをはずして
色々あるべき位置に戻してから再び接合。
なんとかなった。
作った時とは手順が違うから難しかったぞ。
作業場の石壁を近所の大工さんに見てもらうことが出来た。
「どうしようねぇ、考えておく」 と、言ってもらった。
石壁のコンクリート部分を見て
「こりゃ違法建築だぞ」とも言っていた。
その法が出来るのと建てられたのとでどちらが先か知らないけど。
いずれにせよ、震災の家はウチだけではなく、大工さんも忙しそうだったので
修理はもう少し先になると思われる。

作業場掃除に着手

車も電信柱もぐわんぐわん揺れて地震と間違うほどの強風の中
大河原まで買出しに行ってきた。
国道沿いはさほど被害が無い様にも見えたし、
心なしか街が老けたようにも見えて、所々更地になっているのが気になった。
ホームセンターはいたって平然と営業されていたが
天井は無惨にもぐさぐさだった。
店頭にカセットボンベが山積みされていた。
ひとつ4000円クラスの湯呑みが軒並み壊れたので
ひとつ400円台の湯飲みをいくつか仕入れ、
壊れた窓用にベニア板を調達した。
ガソリンスタンドはそれほど並ばずに給油できるようだったが
レギュラー160円超えしているところもあった。
まだまだガソリンは節約運転である。
155円をうたっていた村田のスタンドで満タンにできたけど
「洗車ですか、水が出ないのでまだダメなんです。」と。
昨日、潮の引ききっていない被災地をジャブジャブ走ったらしいから洗車したかった。
大河原で入れればよかった。
作業場一階の掃除がほぼ終わり、窓をふさいだ。
窓をふさいでも割れた石壁や新たに出来た隙間からの風が冷たい。
二階の塗装ブースだが、どうやったらこう壊れるのか
屋根が飛び上がったか重たいブースを相当斜めにしたのか・・・。
ブースの一部を解体して修理しなければなるまい。

花見論

花見をすべきではないとか、権力で抑制すべきではないとか
政治家がもめているけれども
被災者からしたら遠くで見知らぬ誰かが花見をしようがしまいが
はっきり言ってどうでもいい。
ドンチャン騒ぎをしろ、とは言わないけれども
やらなかったよ、と言われてもうれしくもない。
電力消費が気になるなら夜桜をやめればいいのだけれど
それだって東電の問題で東北電力とは関係ない。
気を使ってほしいのは、ブログなどで発信する人。
ほんの少し配慮していただきたい。
もし、花見をしたいのだけれど周りの目が気になるとか、
被災地に後ろめたさを感じるのであれば
例えばこんなのはどうだろう?
ある居酒屋マスターがガンで入退院をしていた頃
僕らがその店でやった遊び。TVのパクリ。
英語や敬語を禁止して罰金100円徴収する。
その貯まった罰金はそっくりカンパとして寄付をする。
「同胞の痛みを分かち合う」などと精神論を述べるより
現金の方が復興には力になるかもしれないよ。

ギター工房tupli でのギター製作と日常を綴ります。