親方

今日、忙しいさなかを縫って
大工さんが我が家の応急処置をしてくれました。
「これじゃ危ねぇかんなぁ。気になってたんだわ」
玄関をジャッキで持ち上げつつ、杭を打って横からジャッキで押す。
さすが。
大工さんの作業や手際を見ていると飽きない。

さらに、家のホゾのはずれた部分を直す為に
屋根裏部屋の床板をはがして
ボルトで締め付け固定。
動かなくなった襖も大多数、動くようにしてくれました。

同じ木工でも全然違う。持っている工具もノウハウも。
本当に感心しきり。
親方!!
その間、誰から届いたか分からないテントが続々。
物資の中継地点というか管理倉庫として選ばれた我が家ですが
これだけ善意が集まってくると責任感が生まれます。
一つ一つダンボールで個包装では避難所でも大変だからと
全部開封して梱包しなおして、
調べものとかしているうちに一日が終了しました。
でも、夜は近所のアンちゃんが
”炊き出し@ギター工房” 
ひっさびさのアルコール。
ごちそうさまでした!

なんだか目が回る

テントは想像を超える数がウチに届くそうです。
みなさん、どうもありがとうございました。
楽器もギターだけはひとまず集まりそうです。
どうもありがとうございました。

電話やメールに追われ
ようやくノーマルタイヤに履き替えて
一本だけジョイントを終わらせた。

「楽器ください」

家で眠っている楽器ください
海岸の方々は住む場所を失い
ライフラインすらまだ整っていないなか
音楽がやりたい
こんな時だけど、こんな時だから
音楽を聞かせたい
でも楽器が何もない
そういう声が届き始めました。
十数年前、学生の頃タダで髪を切ってもらって、さんざんお世話になった
志津川の床屋さんから電話をもらいました。
志津川も電気だけ復旧したものの水もまだ。
ネット環境もないので発信できないとのこと。
あまりに状態の悪い物は勘弁してくださいね。
僕の手がまわりません。
うちのギターでも過乾燥に参ったギターとか
すんっごい昔ので貸し出してたギターとか
なんとか修理して贈りたいと思っております。
とにかく手がまわらない。

テントを山元へ

支援物資として預かったテントを積んで山元町へ行ってきました。
避難所の周囲を少し案内してもらいました。
一見すると広大な田畑だったかのように錯覚します。
まばらになった松の木以外に立っているものがありません。
中まで行くと、電柱が折りたたまれたように破壊されていて
家の基礎の一部だけが残った所に「捜索済」の旗が立っていました。
「大きな建物の影になったんだよ。」
でも自然の気まぐれにしか思えません。大きな建物がよく分からないんです。
10軒だか20軒だか、家の残った区域がありました。
そこを見て初めて住宅密集地であった事が分かりました。
でも、残った家にも松の木が3本刺さっていたり、ぐすぐすの状態でした。
山元町は住宅地の津波被害では宮城で最もひどく、町民のおよそ6割が家を失ったそうです。

テント8ハリ、避難所になっている坂元中学校の体育館へ届けてきました。
現在300人近くの方がここで生活しています。
常にプライバシーがないというのは相当のストレスなのでしょう。
ダンボールでわずかばかりの目隠しを作っていました。

喜んでもらえたようです。
「案外、男性陣の方が利用するかもね」と、係りの人が笑ってくれました。
もう一箇所、坂下1小の体育館にも寄らせてもらいました。
そこには160人余りの方がいたのですが、
更衣室があるからテントはなくても大丈夫とのことでした。
ちょうど夕飯の時間で、案内してくれた人が
「炊き出しは足りていますか?」
と聞くと、充分だ、という返事でしたが
見ればご飯と少量の豚汁のようなもの。それだけ。
豚肉が入っていたかは定かじゃありません。
「たとえ一時のお腹が満たされても、心は満たされないよなぁ」
「玉こんにゃくとか唐揚げとか大判焼とか、子供にはわた飴とか・・・」
「明日の活力になるようなものがさぁ・・・」
案内してくれた彼が嘆いていました。
どちらの避難所も150~200食もあれば充分なぐらいだそうです。
石巻ではチラホラ聞くのですが、県南にも回ってきてくれないものでしょうか。
何かツテのある方、炊き出し関係者にお伝えください。
山元町の食事は寂し過ぎるということを。
帰り道、雨が雪になりました。
「今日は寒いね。」「最初の頃のようだね。」
避難所での会話が少し気になります。

テント

我が家に続々とテントが届いている。
東京の友人が色々声をかけて集めてくれた物だ。
今朝、ある避難所に関する情報をもらった。
学校が始まったことにより教室にいた避難者は体育館に集められた。
それにともない、広い体育館のいっそう窮屈になった場所で、
みんな毛布にもぐって着替えをしている。
もちろん女性も。
テントが役に立つ。
安心して着替えられる場所があればうれしいと。
ただ、テントを広げる場所を確保するのも少々大変。
縦型の着替え用テントだと体育館2階の狭いスペースにも置けて即戦力とのこと。
ただ、避難所の多くは個人からの物資を断っている。
みんなの分行き渡らないし、仕分けする手も足りないから。
正規のルートを通したら届かない。ほしいと言われているのに届かない。
今日、そのルートが一つ開けた。
避難所や役所宛てではなく、避難所にいる個人宛にして直接搬入すれば届く。
明日、山元町の避難所へ
縦型2つ、ドーム型3つ
テントを届けてくる。
ためしに届いたテントを開いてみたら、しまえなくなった。
2時間格闘してようやく収納。
慣れたら30秒なんだけどね。

じゃが

昨日、ホームセンターへ行ったら種芋が売り切れていた。
ちょっと時季が遅いのかも。
それから、いつもの瞬間接着剤が売り切れていた。
こんなの初めて。みんな何を直す気だろう。
そういえば、おととい、ギターの弦を買おうと思ったら
長町モールの新館は真っ暗だった。あそこも被害があったのか。
色々買えない。
種芋がなかったので、昨年収穫したチビチビの芋を植えた。
およそ100個。
今日は余震が少なくて良かったね。
2回ぐらいしか感じてないんじゃないかな。
指板とボディが完成。

審判

罹災証明書が届いた。
「半壊でもいいかなーとは思うけど一部損壊だと思います。」
一部損壊と書いてある。
「被災者生活再建支援制度」
条件:・大規模半壊以上
支給額 50万円~300万円
「住宅の応急修理支援制度」
条件:・自ら修理する資力のない世帯
    ・応急仮設住宅等に入居していない
    ・半壊以上
支給額 最大52万円
「第一次義援金配分」
・死者行方不明者 35万円
・全壊 35万円
・半壊 18万円
以上。
義援金は世界中から届いていて、カンボジアの貧しい地雷原の村からも届いたとか。
なんともありがたい限り。
でも、この一次配分の分ですら足りないのではないかという6日の記事がある。
ところで
一部損壊は一切の支援がない。
(固定資産税の減免があるらしいけど、住居分だけなのでおそらく関係ないし
 所得税の減免があるらしいけど、今回の申告で所得税は支払っていない。)
作業場の半壊も一切の支援がない。
すなはち、僕は自力で何とかしなくてはならない。
もちろん、全壊の上、家財道具も全て失った人には
これっぽっちの支援ではどうにもならない。
賃貸の人はだいぶん助かるだろうけど。
だから文句を言える立場じゃないのかもしれないけど
現実問題として我が家の経済を考えると・・・。
近隣の被害の少なかった町でも、新聞に実名抗議文が出ていたようだけど
被害の少なかった市町村ほど役場の対応はいまひとつ優しさが足りないみたい。
聞きに行ったら腕組みして「何が?」とか言われちゃった。
自らも被災者の役場の人は寝る間も惜しんで頑張ってくれているって聞いてるのにね。
 

女性衣類

昨年度で町の地域コーディネーターは退役したのだが
女川の先生の要望を聞いたことから
自然とボランティアのコーディネーター役になっている。
足代も出ないんです、って言っても
こういう時だからか、名乗り出てくれる人がいる。
その度に僕が現地まで行けるかどうか・・・。
仙台の友人が日本中から衣類を集めてくれている話は以前も書いたと思うが
今日、分けてもらってきた。
そのお宅、大量のダンボールがごった返していて
こりゃ仕分けも大変だ、と思ったところへ、新潟から大きなダンボール2つ届いた。
運送屋さんが「今日は2つだけなんです。」って。
今回頂いてきた衣類は女性用と子供用。
再来週、東京の友人達と再びボランティアへ入る予定で、その時の手土産になる。

車に貼れるマグネットでこんなの作ってみた。
思ったより大変だった。
で、思ったより高くついたかも。

カラカラ

町内の木工製作家さん、洗濯しにウチを選択してくれた。
まだ水が出ていないらしい。
例のイモリのヤツだ。
イモリの詰まった水道管を掘り出そうとすると
そこの地主さんが掘るのを許してくれないとか。
これは天災ではなさそうだぞ。
なんとかならんものかなぁ。
今日は20%を切るほど乾燥していた。
春になったら、と言っていたゆと森ギターの返却はもう少しおあずけ。
ノンカッタウェイのバインディングは終了。

下水

岩沼にある県南地域の下水処理場について、訂正します。
既に、半分は仮設沈殿池への引き込みが終了しているそうです。
関係者の方々に感謝いたします。
元通りまではまだ時間がかかるのでしょうが
復興へ着実に歩み始めておりました。

ギター工房tupli でのギター製作と日常を綴ります。